去年の…津和野の鷺舞奉納@八坂神社:2019.07.06。
去年は、869(貞観11)年の祇園祭創始から1150年ということで様々な記念行事が行われたのですが、本日ご紹介するのは、毎年7月20日と27日に山口県津和野町の弥栄神社で奉納される鷺舞の「里帰り奉納@八坂神社」です。今回はチョッとお勉強も交えて(笑)。
例年、祇園祭ではお迎え提灯(10日)や花傘巡行(24日)にはお子達による鷺踊り(小鷺踊り:こちらをご参照下さい)が披露されますが、こちらの鷺舞は津和野町の鷺舞保存会の(大人の)皆様によるものです。上の画像のように、2人の舞人の他、笛・小鼓・鉦・締太鼓の囃子方、さらに地謡の歌方、棒振り、羯鼓(かっこ:本来は稚児鞨鼓)の方々で構成されます。次の画像手前が鞨鼓。舞人が頭上に被る鷺は木製で、肩につけた羽根は杉板です(朝日新聞は檜と報じていましたが、真偽不明)。鷺は雌雄なのですが、行者橋には区別がつきませんでした。元々、応仁の乱以前から京都の祇園祭で笠鷺鉾(*注①)の周りで舞われていた鷺舞は、室町時代(詳細時期不明)に大内氏が山口の祇園会に移し、さらに1542(天文11)年に津和野の吉見正頼が弥栄神社の祭礼に伝えました(*注②)。次の画像は赤熊)しゃぐま)をつけた棒振り。山口の鷺舞が廃れた後も続いていた津和野の鷺舞ですが、江戸時代初期に一時中絶。京都の鷺舞を再び移して現在まで継承されているとか(*注③)。棒振りも踊りますが、鞨鼓も踊ります。京都の祇園祭の鷺舞は江戸中期に途絶え、1956(昭和31)年に京都大学・同志社大学の狂言研究会等で構成される鷺舞保存会が、 津和野町から「逆輸入」して復活。復活した 京都の鷺舞は、宵山・山鉾巡行&神幸祭・花傘巡行((16・17・24日)に八坂神社境内で奉納されたものの、 鷺舞保存会と神社・経費を負担していた氏子組織の対立が深まり、2006(平成18)年に途絶えます。というように、紆余曲折のあった鷺舞ですが、昨年、祇園祭創始1150年記念を祝うため、津和野町の鷺舞保存会の皆様約20人が出張奉納することになった次第です。京都のお子達の舞う鷺踊り(小鷺踊り)は、それはそれで可愛らしいのですが、津和野の鷺舞は囃子方・鞨鼓等が入るのに加え、大人の舞人の羽根は大きく、開いたり閉じたりする時に大きな音がして迫力がありました。いや、得難い舞を拝見して感激とともに歴史に思いを馳せることができて大満足!
*注①:笠鷺鉾(傘鷺鉾)は囃子を伴った踊り(舞)=風流囃子物で、笠鷺(傘鷺)は鵲(かささぎ)という鳥のことです。津和野の鷺舞でも京都の鷺踊り(小鷺踊り)でも、「かわささぎ」という歌詞で舞が披露されますが、本来は鷺舞では無く鵲舞だと思われます。次の画像は鵲。*画像はWikipediaから転載しています。
鵲は「鵲の渡せる橋」と百人一首にも登場するように七夕伝説で知られていましたが、日本人が現物の鵲を見たのは豊臣秀吉の挑戦出兵以降です。従って、鵲は笠(傘)の鷺と認識されていたようで、京都の鷺踊りでもお嬢さん方の頭上には傘をつけた鷺が見えます。
*注②:1538(天文7)年、津和野城主・吉見隆頼の時に弥栄神社の祭礼が復活し、4年後の1542(天文11)年、新宮に御旅所が建造した時に鷺舞が初めて舞われたそうです。ただし、隆頼が1540(天文9)年に不慮の死を遂げており、この時の城主は本文にもあるように吉見正頼(隆頼の弟が還俗)でした。正頼は兄・隆頼の正室・大宮姫(大内義興の娘・義隆の姉)を受け継ぐ形で娶っています。
*注③:1644(正保元)年、途絶していた津和野の鷺舞を復活させるため、城主・亀井氏の命で町人2人が京都に派遣されて鷺舞を習ったとの伝承があるそうですが、応仁の乱以前の後祭で舞われていた京都の鷺舞は、山鉾巡行が復活した1500(明応9)年以降には披露されたことが無いそうで、真偽不明。左義長(さぎちょう)等でも鷺舞が披露されていたらしいので、可能性絶無では無いのですが。
例年、祇園祭ではお迎え提灯(10日)や花傘巡行(24日)にはお子達による鷺踊り(小鷺踊り:こちらをご参照下さい)が披露されますが、こちらの鷺舞は津和野町の鷺舞保存会の(大人の)皆様によるものです。上の画像のように、2人の舞人の他、笛・小鼓・鉦・締太鼓の囃子方、さらに地謡の歌方、棒振り、羯鼓(かっこ:本来は稚児鞨鼓)の方々で構成されます。次の画像手前が鞨鼓。舞人が頭上に被る鷺は木製で、肩につけた羽根は杉板です(朝日新聞は檜と報じていましたが、真偽不明)。鷺は雌雄なのですが、行者橋には区別がつきませんでした。元々、応仁の乱以前から京都の祇園祭で笠鷺鉾(*注①)の周りで舞われていた鷺舞は、室町時代(詳細時期不明)に大内氏が山口の祇園会に移し、さらに1542(天文11)年に津和野の吉見正頼が弥栄神社の祭礼に伝えました(*注②)。次の画像は赤熊)しゃぐま)をつけた棒振り。山口の鷺舞が廃れた後も続いていた津和野の鷺舞ですが、江戸時代初期に一時中絶。京都の鷺舞を再び移して現在まで継承されているとか(*注③)。棒振りも踊りますが、鞨鼓も踊ります。京都の祇園祭の鷺舞は江戸中期に途絶え、1956(昭和31)年に京都大学・同志社大学の狂言研究会等で構成される鷺舞保存会が、 津和野町から「逆輸入」して復活。復活した 京都の鷺舞は、宵山・山鉾巡行&神幸祭・花傘巡行((16・17・24日)に八坂神社境内で奉納されたものの、 鷺舞保存会と神社・経費を負担していた氏子組織の対立が深まり、2006(平成18)年に途絶えます。というように、紆余曲折のあった鷺舞ですが、昨年、祇園祭創始1150年記念を祝うため、津和野町の鷺舞保存会の皆様約20人が出張奉納することになった次第です。京都のお子達の舞う鷺踊り(小鷺踊り)は、それはそれで可愛らしいのですが、津和野の鷺舞は囃子方・鞨鼓等が入るのに加え、大人の舞人の羽根は大きく、開いたり閉じたりする時に大きな音がして迫力がありました。いや、得難い舞を拝見して感激とともに歴史に思いを馳せることができて大満足!
*注①:笠鷺鉾(傘鷺鉾)は囃子を伴った踊り(舞)=風流囃子物で、笠鷺(傘鷺)は鵲(かささぎ)という鳥のことです。津和野の鷺舞でも京都の鷺踊り(小鷺踊り)でも、「かわささぎ」という歌詞で舞が披露されますが、本来は鷺舞では無く鵲舞だと思われます。次の画像は鵲。*画像はWikipediaから転載しています。
鵲は「鵲の渡せる橋」と百人一首にも登場するように七夕伝説で知られていましたが、日本人が現物の鵲を見たのは豊臣秀吉の挑戦出兵以降です。従って、鵲は笠(傘)の鷺と認識されていたようで、京都の鷺踊りでもお嬢さん方の頭上には傘をつけた鷺が見えます。
*注②:1538(天文7)年、津和野城主・吉見隆頼の時に弥栄神社の祭礼が復活し、4年後の1542(天文11)年、新宮に御旅所が建造した時に鷺舞が初めて舞われたそうです。ただし、隆頼が1540(天文9)年に不慮の死を遂げており、この時の城主は本文にもあるように吉見正頼(隆頼の弟が還俗)でした。正頼は兄・隆頼の正室・大宮姫(大内義興の娘・義隆の姉)を受け継ぐ形で娶っています。
*注③:1644(正保元)年、途絶していた津和野の鷺舞を復活させるため、城主・亀井氏の命で町人2人が京都に派遣されて鷺舞を習ったとの伝承があるそうですが、応仁の乱以前の後祭で舞われていた京都の鷺舞は、山鉾巡行が復活した1500(明応9)年以降には披露されたことが無いそうで、真偽不明。左義長(さぎちょう)等でも鷺舞が披露されていたらしいので、可能性絶無では無いのですが。
この記事へのコメント