斎王代・女人列御禊神事@下鴨神社:2019年5月4日。
葵祭と言えば、勿論、5月15日に路頭の儀(ろとうのぎ)と社頭の儀が有名ですが、実は5月1日から様々な前儀が行われます。日程的には下鴨神社での流鏑馬神事(3日)が先なのですが、本日は4日の斎王代・女人列御禊神事(さいおうだい・にょにんれつみそぎしんじ)を。まずは斎王代さんの画像。また、お家柄等の話も少々。
行者橋、下鴨神社にチャリチャリと駆け付けて、御手洗川(みたらしがわ)に両手を浸す場面を撮影に行ってきました。はい、今年は根性を入れてみました。次は神事開始(10時予定)前の会場の様子。予定が遅れて、先導する神職登場が10時10分過ぎ、陪従(べいじゅう:雅楽を演奏する楽人)を先頭にして斎王代&女人列が登場したのは10時30分頃。次は、到着時の斎王代さん。流石にちょっと緊張気味でしたが、今年の(第64代)斎王代さんのお名前は負野李花(おうの りか)さん。23歳で村田製作所に勤務されているとか。十二単(じゅうにひとえ)姿での移動は大変。衣文方と呼ばれる方が、立ったり座ったりする時に着物の処理にあたります。次の画像は、手前の樹木が邪魔ですが(笑)、女人列の方が並んだ様子。次は着席され、神事開始を待つ場面。負野さんは西本願寺前で、お香を製造・販売されている「負野薫玉堂」(何と、1594=文禄3年創業の老舗)のお嬢さん(次女)だそうです。神事の様子を少し。こちらは修祓(しゅばつ)の場面ですが、祓の詞(はらえのことば)を奏上しているところ。これが長かったですねぇ。その後、上の画像にある唐櫃(からびつ)から出した祓の詞を元に戻し、同じく唐櫃から御幣(ごへい)を出して、次々とお祓いをしていきます。そして、斎王代さんが御禊の場所に移動しますが、2人の童女が先導し、別の2人の童女が十二単の長い裾を手に取って行きます。さらにその後ろに2人の侍女が付き添います。誘導の神職の方が下がって6人が御禊の場に揃います。次の画像奥に神職の方が並んでいるのが井上社(。御手洗社)。手前の川が御手洗川(御手洗池)。そして、最初の画像と同じ場面。斎王代さんが御手洗川に両手を浸しますが、これは平安時代に“斎王”が鴨川の河原で身を清めて葵祭の無事を祈った故事にならった儀式です。忘れていましたが、この斎王代・女人列御禊神事は隔年で上賀茂神社と下鴨神社で行われ、今年は下鴨神社の番だったのです。そして、手を拭いた“手水紙”を流します。そして、神職の誘導に従って斎王代さん以下6人が元の場所に戻ります。こちらの画像だと十二単の上着の長い裾の様子が良く分かります。ということで、一応、メインの美式は終了。斎王代さんもホッと一息。負野さんは、同志社高校時代にラクロス部の主将として全国大会で優勝・最優秀選手に輝いたとか。さらに高校時代にドイツ語を学び、大学時代にドイツ留学もされたとか。といった個人情報が新聞・TV他のメディアでOPENになるので、斎王代さんは大変(笑)。上の画像は神事終了後、記念撮影の手順を説明中の場面。なお、「趣味は茶道が斎王代さんになるPOINT!」と行者橋の隣の京雀が囁いていました。次は、場所を変えて正面のテントを通して撮った画像。次は正面からの斎王代さん。負野家は、元々、中村姓で4代目の中村八良重成が石山合戦(織田信長と石山本願寺の戦い)の時、石山本願寺から紀州鷺ノ森へ御真影を背負って野をお供したので、負野の姓を頂いたのだとか。最後は再び別画像でこちら。新聞・TVではこの場面の正面からの低い位置からの画像がメインとなりますが、行者橋のような一般人には不可能な画像です(笑)。で、前述したように、石山合戦終了後の1594(文禄3)年に、本願寺前の現在地で本願寺出入りの薬種商として創業。創業者・負野理右衛門は薫物商としての基礎を築き、以来420年余り「日本最古の御香調進所」として現在に至っているのだとか。いやはや、京都に凄いお家があるもんです。
行者橋、下鴨神社にチャリチャリと駆け付けて、御手洗川(みたらしがわ)に両手を浸す場面を撮影に行ってきました。はい、今年は根性を入れてみました。次は神事開始(10時予定)前の会場の様子。予定が遅れて、先導する神職登場が10時10分過ぎ、陪従(べいじゅう:雅楽を演奏する楽人)を先頭にして斎王代&女人列が登場したのは10時30分頃。次は、到着時の斎王代さん。流石にちょっと緊張気味でしたが、今年の(第64代)斎王代さんのお名前は負野李花(おうの りか)さん。23歳で村田製作所に勤務されているとか。十二単(じゅうにひとえ)姿での移動は大変。衣文方と呼ばれる方が、立ったり座ったりする時に着物の処理にあたります。次の画像は、手前の樹木が邪魔ですが(笑)、女人列の方が並んだ様子。次は着席され、神事開始を待つ場面。負野さんは西本願寺前で、お香を製造・販売されている「負野薫玉堂」(何と、1594=文禄3年創業の老舗)のお嬢さん(次女)だそうです。神事の様子を少し。こちらは修祓(しゅばつ)の場面ですが、祓の詞(はらえのことば)を奏上しているところ。これが長かったですねぇ。その後、上の画像にある唐櫃(からびつ)から出した祓の詞を元に戻し、同じく唐櫃から御幣(ごへい)を出して、次々とお祓いをしていきます。そして、斎王代さんが御禊の場所に移動しますが、2人の童女が先導し、別の2人の童女が十二単の長い裾を手に取って行きます。さらにその後ろに2人の侍女が付き添います。誘導の神職の方が下がって6人が御禊の場に揃います。次の画像奥に神職の方が並んでいるのが井上社(。御手洗社)。手前の川が御手洗川(御手洗池)。そして、最初の画像と同じ場面。斎王代さんが御手洗川に両手を浸しますが、これは平安時代に“斎王”が鴨川の河原で身を清めて葵祭の無事を祈った故事にならった儀式です。忘れていましたが、この斎王代・女人列御禊神事は隔年で上賀茂神社と下鴨神社で行われ、今年は下鴨神社の番だったのです。そして、手を拭いた“手水紙”を流します。そして、神職の誘導に従って斎王代さん以下6人が元の場所に戻ります。こちらの画像だと十二単の上着の長い裾の様子が良く分かります。ということで、一応、メインの美式は終了。斎王代さんもホッと一息。負野さんは、同志社高校時代にラクロス部の主将として全国大会で優勝・最優秀選手に輝いたとか。さらに高校時代にドイツ語を学び、大学時代にドイツ留学もされたとか。といった個人情報が新聞・TV他のメディアでOPENになるので、斎王代さんは大変(笑)。上の画像は神事終了後、記念撮影の手順を説明中の場面。なお、「趣味は茶道が斎王代さんになるPOINT!」と行者橋の隣の京雀が囁いていました。次は、場所を変えて正面のテントを通して撮った画像。次は正面からの斎王代さん。負野家は、元々、中村姓で4代目の中村八良重成が石山合戦(織田信長と石山本願寺の戦い)の時、石山本願寺から紀州鷺ノ森へ御真影を背負って野をお供したので、負野の姓を頂いたのだとか。最後は再び別画像でこちら。新聞・TVではこの場面の正面からの低い位置からの画像がメインとなりますが、行者橋のような一般人には不可能な画像です(笑)。で、前述したように、石山合戦終了後の1594(文禄3)年に、本願寺前の現在地で本願寺出入りの薬種商として創業。創業者・負野理右衛門は薫物商としての基礎を築き、以来420年余り「日本最古の御香調進所」として現在に至っているのだとか。いやはや、京都に凄いお家があるもんです。


















この記事へのコメント
今まで出会ったことがなかったので、
珍しい苗字の方だと思っていたが、
歴史・由緒がある苗字だったんですね。
京都は本当に奥深い。